※この記事にはネタバレが含まれます。東京公演をこれから観劇予定の方はご注意ください。
5月12日、宝塚大劇場で月組公演『RYOFU』『水晶宮殿(クリスタルパレス)』を観てきました。B席2階12列という席でしたが、舞台全体が見渡せて、特に今回のように殺陣の多い演目は見やすいと思います。
普通の観劇レポートはすでにたくさんのブログで書かれていると思いますので、私はこの作品を観て特に気になったテーマについて、自分なりの考察を書いてみようと思います。三国志はほとんど知らず事前の予習なしで観劇しました。観劇後に史実も調べた上での感想です。
三国志に詳しい方には物足りないかもしれませんが、これから東京公演観劇予定の方に少しでも参考になれば嬉しいです。
この作品が伝えたかったこと──主題について
「なぜ三国志なのに呂布を主役にしたのか」、劉備も曹操も孔明も、もっと有名で格好いい人物がいくらでもいるのに、なぜ「裏切り者」として名高い呂布を脚本・演出の栗田優香先生は選んだのか。
観終わって史実を調べて気づいたのは、この問い自体が作品の主題と深く結びついているということです。
栗田先生は「なぜこの人はこういう行動をしたのか」という疑問から創作が始まるタイプの方のようで、劉備や曹操のような「すでに評価が固まった英雄」より、「誰もまだちゃんと問いかけていない人物」のほうがドラマになる、と確信されたのではないかと思います。
インタビューで栗田先生は「すごく強い呂布と、すごく悪い董卓、そしてかっこよくて美しい美女・貂蝉というのが、『あ、すごい宝塚に合いそう』って思った」と語っているそうです。6〜7年かけて温め続けた題材だったそうで、ちなつちゃんとじゅりちゃんのトップコンビ誕生を機に「劇団にぜひやりたいと自分で言いに行きました」という言葉に、この作品への並々ならぬ思い入れが伝わってきます。
これらを踏まえてこの作品の主題について考えてみます。
愛には人を変える力がある
この作品が最も伝えたかったことは何か。私は「愛には人を変える力がある」ということだと思います。
ちなつちゃん演じる呂布は、幼少期に獣の皮を剥ぐ被差別民として生きてきたという設定です(これは史実にはなく、栗田先生によるオリジナルの設定と思われます)。差別され、蔑まれ、人として扱われなかった経験が、感情を持たない最強の武将を作り上げた。愛されたことのない者は、愛し方を知らない。
その呂布が雪蓮と出会います。元々は己の出世のために近づいた相手でしたが、生い立ちに関係なく人間として向き合ってくれる雪蓮の存在に、呂布は生まれて初めて「この人は違う」と感じる。その出会いが、怪物だった男を徐々に変えていきます。
栗田先生が「天紫(珠李)さんにハマるだろうなというのもあって、そういうキャラクターにしています」と語る雪蓮という存在があってこそ、「怪物だった男が最後に人間として死ぬ」物語が成立する。史実では曹操に処刑される呂布が、この作品では雪蓮をかばって死を選ぶ結末に変えられているのも、栗田先生が「愛の力」をこの作品の核心に据えたからだと感じました。冒頭で替え玉が処刑される演出も、その逆説を最初に告げる仕掛けです。
「被差別民の生い立ち」という設定が持つ意味
主題にも書きましたが、「獣の皮を剥ぐ仕事を強いられた幼少期」という呂布の生い立ち設定は、史実にも三国志演義にも中国の民間伝承にも存在しません。栗田先生が今回のために生み出した完全なオリジナルの設定と思われます。では、なぜこの設定が必要だったのか。
ひとつは「呂布はなぜ人を躊躇なく殺せるのか」という疑問への答えです。幼いころから人として扱われず、命の軽さを身体で知ってきた人間が、最強の武将になったとき何をするか。差別された経験が、皮肉なことに「殺すことへの抵抗感を持たない武将」を作り上げた、という因果がここには込められています。
もうひとつは「雪蓮との出会いの意味」を際立たせるためだと思います。婚礼の場に迷い込んだ被差別民の少年を、その場の誰もが「穢れたもの」として排除しようとする中で、雪蓮だけがその少年に心から寄り添う。その姿に、呂布はかつての自分を見る。雪蓮が呂布の心を動かせたのは「美しいから」でも「身分があるから」でもなく、その心の優しさに惹かれたからなのだということが、この生い立ち設定によって初めて説得力を持ちます。
また正史の呂布は、史書の著者・陳寿から「虎の勇猛さはあるが英略がない」と評され、曹操からは「狼の子は野性ゆえ人に懐かない」と言われています。「獣」と呼ばれた男の物語、という生い立ち設定は、こうした史書の言葉ともひそかに呼応していて、そこが栗田先生の巧みさだと感じました。
丁原一族皆殺しのあと──呂布と雪蓮、それぞれの心情
個人的にこの作品で一番心を揺さぶられた場面です。
赤兎馬の幻惑に操られるように丁原一族を皆殺しにした呂布は、血に染まったまま雪蓮の前に現れ、これまでの自分の本当の姿をさらけ出します。そして雪蓮に刃を向けるよう仕向けます。
呂布の心情──「俺は獣だ」という自己破壊
あの場面の呂布は、単純に雪蓮を殺そうとしていたわけではないと私は感じました。
雪蓮という存在に触れて、自分の中に今までなかった感情が芽生えかけていたことへの恐怖があったのではないでしょうか。だから「俺はやはり獣だ。お前が思っていた人間ではない」と突きつけることで、その芽生えを自分で摘み取ろうとした。「俺を斬れ」という態度は、憎しみからではなく、むしろ「変われなかった自分への絶望」から来ていたように見えました。
雪蓮の心情──「殺せない」自分と向き合う
雪蓮は刃を構えながら、結局呂布を斬ることができない。そして川に身を投げます(と思いました。舞台上は布と映像を使った美しい演出でした)。
なぜ雪蓮は呂布を斬れなかったのか。家族を殺されたのに、なぜ。
私にはその理由をひとことで言い表せないのですが、あの場面の雪蓮には、怒りと悲しみだけではない、もっと複雑な何かがあったと感じました。憎んでいるのに斬れない。だからといって共に生きることもできない。その行き場のなさが、川への一歩だったのではないかと。これは観た人それぞれの解釈があると思います。
なお「自ら身を投げた」という解釈は観劇者の間で広く共有されているようですが、栗田先生や公式サイドからその場面の詳細についての明確なコメントは出ていないようで、演出の余白として観客に委ねられている部分だとも感じました。
この場面が示すもの
「呂布は雪蓮を斬れなかった」という事実は、実はこの作品で最も重要な一点だと感じています。天下取りのためなら誰でも躊躇なく切り捨ててきた男が、この瞬間だけ刃を下ろせなかった。それが「愛の力の証明」であり、同時に「人間に戻りかけた証拠」だった。
作品の色彩設計として呂布の赤と雪蓮の青が対比されているのですが、激しい赤の世界(皆殺しの場面)から一転して青い水の世界へと移行するあの川のシーンの視覚的な美しさは、2階席からもはっきり感じ取れました。
おわりに
ちなつちゃんは今回、本当に「きれいに演じない」ことへの覚悟を感じる呂布でした。血まみれで登場する場面、感情を封じて動く場面、そして最後に人間として死ぬ場面。どれも格好悪さや危うさを含んでいて、だからこそ格好よかったです。
じゅりちゃんの雪蓮は、強さと清らかさが同居するキャラクターで、前半の「感情の豊かなお嬢様」から後半の「記憶を失っても芯を持ち続ける女性」への変化がとても自然でした。本当にお芝居うまいですね。
東京公演を観劇予定の方、ぜひ冒頭の「第0場」から集中して観てみてください。替え玉が処刑されるあの場面の意味が、ラストシーンで腑に落ちる瞬間がこの作品の最大の仕掛けだと思います。

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